朝食を摂りに食堂へ向う途中、新聞に目を通すと 本土復帰50周年の文字が一面を飾っていた。敗戦後に奄美諸島も アメリカに接収されており、その復帰から50年が経ている事を 自分はこの時に初めて知った。奄美や沖縄では本州の事を 「本土」と呼ぶが(北海道では「内地」)、 日本に対する気持ちは「本土」に住む人間以上に強いのだと感じる。 家々には「日の丸」が掲げられていた(なお、北海道では「日の丸」は 殆ど掲げません)。
元旦の朝も大晦日同様にご先祖に食事を備えて挨拶(お祈り?)をしていた。
与論では先ず最初にお雑煮を食べ、続いて普通の朝ごはんを食べるとの事だった。
おせち料理と言うものは存在しない。代わりに一家で豚を一頭締めて
皆で食べていたそうだが、今は豚を締める事は殆どしなくなったらしい。
おばあちゃんは
「私はこれまでに豚を72頭食べてきたんだよ」
と孫達に話していたのが興味深かった。「人間も動物である以上、
他の生き物を殺して食べなくては生きていけない」と言う、
至極当然の事を再認識させられた瞬間であった。
(鯨はダメだが家畜はO.K。食べ物がゴミとして捨てられる一方で、
物が食べられずに死んでいく。色々な矛盾を孕みながら、
西暦で言う所の2003年は始っていった。)
左:お雑煮と刺身を食べた後に、 右:普通の朝ごはんを食べました。
民宿「ますお荘」を後にし「百合ヶ浜」へと向う。
出港まで時間があったので
グラスボート(船底がガラス張りになっていて、
海の中を覗ける船。大人1名で2,000円。)に乗り込む。
海上ではウィンドサーフィンを楽しむ人が多数おり、一方の海中では
サンゴや南国の魚が見れる。海上の少し肌寒い海風と波しぶきを
肌に感じながら、南の島の海を楽しんでいた。
左:船の上からの海 右:海中。サンゴに魚が集まっている
後はフェリーで奄美に渡るのみ。待合室で名物の
「もずくそば」
(そばの中にもずくが練りこんでいるのかな?)を食べ、
ボーっと港の湾を眺めていた。この日は関東の3月の陽気を感じさせる
温かさで、都会の煩わしさがアホ臭く思えてくる。平和で咽喉かな時間だ。
左:もずくそば 右:港にて
フェリーに乗ると正月と言うことで乗客は多くない。空きが多数の 2等雑魚寝部屋はガラガラで、買ってきておいたオリオンビールを片手に 衛星放送のイラク情勢を眺めていた。温かい陽気に酒を片手に他人事と しか思えないTVをただ眺めているいい加減な自分と、明日にでも真面目に 人殺しを始めようとしているアメリカのお偉いさん方との対比が 皮肉を通り越して滑稽に感じてくる。中国の魯迅の「阿Q伝」で、 「狂った世の中では自分も狂っていないと生きていけない」、なる 記述があった気がしたが、明日の飯にも困らない人間が偉そうな事を述べても、 何の役にも立たない気がする。(記述があっているかどうかは分からないが)
穏やかな海上をフェリーは進み、夜の9時前には奄美大島の名瀬港に入港。 キャンプ場は大浜海浜公園に隣接している小浜キャンプ場と決めていたが、 キャンプ場を探すのに一苦労。海浜公園の駐車場から海岸線の歩道を東へ 少し歩くとは全然思ってもいなかった。キャンプ場では2組がテントを張っていたが、 キャンプ場の芝には「ヤスデ」をやたらと見かける。 (後日知ったのだが、今奄美ではヤスデの大量発生が大問題になっており、 キャンプ場で見かける数などはまだ可愛い方らしい)とりあえず遅い夕飯を 食べてこの日は11時過ぎに就寝。波と風の音だけが聞こえる夜だった。
この日の走行距離:42.7 km